浅野氏広島城入城
400年記念事業
平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(後期)
第1回「頼春水「水盤灯籠銘」(饒津神社)について」
浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」後期 第1回「頼春水「水盤灯籠銘」(饒津神社)について」を平成30年11月17日(土)に開催しました。
その概要をご紹介します。
第1回「頼春水「水盤灯籠銘」(饒津神社)について」
講師:広島大学名誉教授 狩野 充德さん


概要
東区二葉の里二丁目にある饒津神社は、天保5年(1834年)、浅野家広島藩第9代藩主斉粛(なりたか)が、浅野家初代長政の御霊を祀るため、広島城の鬼門(北東)に当たる二葉の里に造営したものです。参道の両側には浅野家家臣奉納の石灯籠127基(現在確認できるもの)が並び、境内には、浅野長勲公頌徳碑などの石碑も多くあります。
今回は境内の奥、拝殿の傍に位置する「石水盤石燈籠銘」に彫られた銘文について、広島大学名誉教授(中国古典解釈学)の狩野充德先生により、銘文の解釈を中心にお話しをしていただきました。
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水盤灯籠銘(石水盤石灯籠銘)について
水盤灯籠銘(石水盤石灯籠銘)
石水盤(手水鉢)
石灯籠 石水盤石灯籠銘には、頼春水が著述した銘文と、文化7年(1810年)に明星院で浅野長政公200回忌法要が営まれた際に石水盤(手水鉢)と石灯篭を奉納した272名の名前が刻まれている。
石水盤(せきすいばん)は、石で造った手洗い用の盥(たらい)のことで、現在、向唐門(むこうからもん)の外側にある手水鉢のことである。原爆の被害を受けたが、平成29年(2017年)に浅野長晟(ながあきら)入城400年記念事業の一環として補修され、72年ぶりに使用できるようになった。
石灯籠は、参道の石灯籠のうち、文化7年の刻銘を持つ23基のことである。
(1) 由緒
石水盤石灯籠銘の奉納者は、浅野長晟が紀伊国(和歌山)から安芸国へ移封された際に随従した人達の、文化7年時における子孫である。
(2) 春水がこの「銘文」を作成するに至った経緯・動機
浅野家広島藩第7代藩主重晟(しげあきら)・第8代藩主斉賢(なりかた)の意向を受けて、銘文製作に相応しい人物として、藩主自身あるいはその側近から推薦されたと考えられる。
春水は銘文を作成するに当たり、典拠として漢籍を利用することで、長晟や位牌堂を建立した斉賢を名君として間接的に称賛している。また、この銘文から春水の中国古典に対する深い学識がうかがえる。
(3) 石造であることの意味
水盤や灯篭、石水盤石灯籠銘が石で作られているということは、一時的な、その場限りの披露や祭りの為の記念ではなく、後世にしっかり残る堅固なものとして記録し、永遠に子々孫々へ伝えて行こうという意図であると考えられる。
(4) 銘文の大意
元和5年 (1619年)に、浅野長晟公の安芸国移封に従った臣下達は、藩統治に当たり、様々な苦労をしたが、その後子孫が絶えることなく続き、今や福禄を受け、繁栄している。文化7年 (1810年)は、浅野家初代長政公の二百年忌に当たる。そのご恩に報いるため、石造りの水盤・灯篭を奉献した。新建立の位牌堂傍の水盤と灯篭は、位牌堂や浅野家初代また歴代藩祖のご栄光を永遠に映し、照らす。
(5) 趣旨
浅野侯にお仕えする我々臣下は、浅野家初代長政公を始め、芸州転封の長晟公以下、歴代藩祖のご恩に深く感謝し、永遠にそのご遺徳・ご威光を維持・継続して行かねばならない。
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頼春水について
延享3年~文化13年(1746年~1816年)、江戸後期の儒者、漢詩人。頼山陽の父。名は惟寛(ただひろ)、字は千秋(せんしゅう)、通称は弥太郎。安芸竹原生まれ。明和3年(1766年)大阪に出て、片山北海の漢詩結社 混沌(こんとん)社の一員として活動し、のち広島藩の儒官となった。厳格な朱子学者で、藩学を朱子学に統一して、寛政異学の禁(寛政2年(1790年))の先駆けとなって江戸幕府直轄の教学機関である昌平坂学問所の講師にもなった。なお、春水の詩文は「春水遺稿」にまとめられている。(参考:『広辞苑』第6版(新村 出/編、岩波書店、2008年)、『世界大百科事典改定新版』(平凡社、2007年)、『日本大百科全書(ニッポニカ)』23巻(小学館、1988年))
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石水盤石燈籠銘(全80字)各段の要旨
要旨の説明にあたり、碑文本文を一句四字に断句し、四句を一段として解釈を加える。※碑文本文は太字部分
(第一段)
浅野長晟公に従って紀伊国より安芸国へ入国した臣下達が、藩統治の開始に当り様々な苦労をした。無小無大/従吾烈祖/創業戮力/備嘗艱苦
小と無く大と無く/吾が烈祖に従う/業を創(はじ)め力を戮(あわ)せて/備(つぶさ)に艱苦を嘗(な)む
臣下の低きも高きも、吾が功績有る藩祖の浅野長晟公に従った。藩統治の大事業を皆が力を合わせて始め、様々な苦労をなめ尽くした。(第二段)
慶長十六年(1611)長政公は身罷り、文化七年は丁度二百年忌に当る慶長辛亥/曽奔群臣/文化庚午/方二百旾
慶長辛亥/曽(すなわ)ち群臣を棄つ/文化庚午は/二百春(しゅん)に方(あた)る
ところが慶長辛亥十六年、長政公は身罷った。文化庚午七年は、丁度、二百年忌に当る。(第三段)
安芸入国に従った臣下達は子孫が絶えることなく続き、今や子孫は幸福と俸禄を受けて、人も増え繁栄している。維其小大/子孫縄縄/同受福禄/不翅雲仍
維(こ)れ其の小大/子孫縄々(じょうじょう)たり/同じく福禄を受けて/雲仍(うんじょう)も翅(ただ)ならず
入国に従った高低の臣下達は、子孫が絶えることなく続いている。いずれも皆幸福と俸禄を受けて、後世の子孫は、かくも繁栄している。(第四段)
長政公以来の藩祖のご恩に報いようと、満々と水を湛える水盤、光り輝く燈籠を造り上げた。豈曰為報/胥謀命工/湛湛水盤/晃晃燈籠
豈に為に報いんと曰(い)わんや/胥(あ)い謀りて工に命ず/湛湛(たんたん)たる水盤/晃晃たる燈籠
ご恩に報いようというのではないが、皆で相談し、石水盤・石燈籠の製造を職人に命じた。満々と水を湛える水盤、明るく輝く燈籠。(第五段)
堂々たる位牌堂の傍に献じ奉られた水盤と燈籠、その水や燈は位牌堂、また祭られている長政公を始めとする藩祖の仁徳・栄光を永遠に映し、照らすであろう。竝奉以獻/奕奕之傍/之水之燈/永照無疆
並びに奉じて以て献ず/奕奕(えきえき)たるの傍(かたわら)に/之の水之の燈/永く照らして無疆(むきょう)なり
水盤と燈籠とを併せて献じ奉る、堂々として壮麗な位牌堂の傍らに。この水もこの燈も、永遠に(水に映し)明るく照らす。(年月と撰者名)
文化七年庚午夏四月
文化七年庚午、夏四月臣賴弥太郎惟完拜撰
臣頼弥太郎惟完 拝して撰す -
まとめ
本文は八十字、四字句の銘文である。簡潔で、文章表現や構成に無駄がない。一段目の「従吾烈祖・備嘗艱苦」から五段目の「奕奕之傍・永照無疆」まで、韻を換えながら偶数句末に韻を踏んでいる。
また、『毛詩』『尚書』『左伝』『爾雅』『史記』『漢書』などの中国古典に典拠を持つ語を多用し、格式高い文章となっている。
春水の中国古典に対する深い学識があってこそ、藩主をはじめ、臣下や後々の子孫が読むに値する荘重な銘文を作成することができた。春水に銘文を作成させた浅野重晟・斉賢、また側近は人材選抜の眼識を具えていたといえよう、と締めくくられた。
関連本
- 『饒津神社復興之記』
(饒津神社/編、饒津神社/編、1984年) - 『詩集日本漢詩 第10巻』
(富士川 英郎〔ほか〕/編、汲古書院、1986年) - 『頼山陽とゆかりの文人たち』
(頼山陽記念文化財団/〔編〕、頼山陽記念文化財団、2005年) - 『世界遺産・厳島の総合的研究 伝承性の再検討』
(狩野 充德/研究代表、広島大学大学院文学研究科/編、広島大学大学院文学研究科、2008年) - 『芸州鎮護饒津神社四百年祭』
(饒津神社社務所/〔編〕、饒津神社、2010年) - 『頼杏坪とその時代 文人代官が見た江戸時代』
(広島県立歴史民俗資料館/編、広島県立歴史民俗資料館、2010年) - 『江戸後期の詩人たち』
(富士川 英郎/著、平凡社、2012年) - 『漢詩をつくろう』
(新田 大作/著、明治書院、2013年) - 『近世文人の世界』
(ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)/編、ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)、2014年) - 『文人たちの手紙』
(頼山陽記念文化財団/〔編〕、頼山陽記念文化財団、2014年)